既存顧客を失うのが怖くて値上げできない|交渉前に整理する条件

営業・交渉
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長く取引している顧客への値上げを考えたとき、「断られたら取引がなくなるかもしれない」と不安になり、交渉を切り出せないことがあります。今の価格を続ければ関係を守れるように感じても、費用が増えていれば、契約を続けるほど自社の負担が大きくなる場合があります。

値上げ交渉の前には、顧客を失う不安と実際に確認できる条件を分け、現行価格での採算、顧客の利用状況と満足度、値上げの理由、契約上の手続き、提示できる代替案を整理します。値上げを必ず実施することが目的ではありません。価格を維持する場合も含め、判断する理由を明確にすることが大切です。

この記事では、取引を失うことへの不安が判断に関わる心理と、顧客が値上げをどう受け止めるかについての研究を確認し、交渉前に準備する内容を説明します。

既存顧客への値上げをためらう判断には、何が影響するのか

「取引を失うかもしれない」が、価格を変えない理由になる

説明用の仮の場面です。ある営業担当者は、5年間契約している取引先の保守業務を担当しています。人件費や外注費が上がり、今の契約金額では利益がほとんど残りません。それでも「値上げを伝えると、長年の顧客が他社へ移るかもしれない」と考え、従来の料金を維持しています。

ここで心配しているのは、新たな利益を得られないことより、すでにある取引関係を失うことです。現在の状態を基準にすると、値上げによって得られる収入より、取引終了の可能性が強く意識される場合があります。

ただし、顧客を失うリスクは実際に存在します。取引先の予算制約や競合への切り替え可能性を確認せず、「不安は単なる思い込み」と片付けることも適切ではありません。

損失を重く評価する研究は、ためらいを考える手がかりになる

Kahneman、Knetsch、Thaler(1991)は、物を新たに手に入れるために払ってよい金額より、今持っている物を手放すために求める金額のほうが高くなる現象や、現状を維持しようとする傾向について、先行研究の証拠を整理しました。著者らは、その背景を、得ることと失うことが同じ重みで評価されない「損失回避」と関連づけています。Kahnemanら(1991)の論文要旨

この論文は、営業担当者が値上げするときに顧客を失う確率をどう見積もるかを調べたものではありません。そのため「取引を失う不安はすべて損失回避が原因だ」とは言えません。また、損失回避の現れ方や大きさをすべての状況に当てはめることもできません。

ただし、今ある顧客を失う可能性に注意が集中し、価格を維持した場合の負担を検討していないなら、両方の結果を同じ期間で比べる必要があると考えられます。心理の詳しい説明は損失回避と判断への影響でも確認できます。

値上げ後の反応には、金額だけでなく満足度や理由の受け止め方も関わる

Homburg、Hoyer、Koschate(2005)は、値上げ幅、値上げ理由が公平だと感じられるか、値上げ前の顧客満足度と、値上げ後の再購入意向との関係を実験で調べました。

その結果、値上げ幅が大きいほど再購入意向に不利な影響がありましたが、満足度が高い条件では、その不利な影響が弱まりました。また、値上げ理由が公平だと感じられるかどうかの影響も満足度によって異なり、満足度は値上げ理由の解釈にも関わっていました。Homburgら(2005)の研究要旨

ここで測られたのは主に「また購入したいか」という意向であり、実際の法人顧客がどの割合で解約したかではありません。顧客満足度が高ければ、どんな値上げでも受け入れてもらえるという意味でもありません。

一方、Kahneman、Knetsch、Thaler(1986)は、価格や賃金についての公平感を電話調査で調べました。回答者は、企業の利益が脅かされる状況での値上げは受け入れやすく、需要の増加を利用した値上げは不公平と判断する傾向を示しました。Kahnemanら(1986)の研究概要

これも調査で示された状況への公平感であり、特定のBtoB契約での値上げ受諾率を示すものではありません。それでも、取引先に変更理由を説明するとき、値上げ幅だけではなく、何の費用が変わり、提供する内容をどう維持するのかを具体的に示す意味を考える材料になります。

値上げ交渉の前に、何を確認するか

今の価格を維持すると、採算はどうなるか

まず、現在の契約料金と、その契約を履行するための費用を確認します。過去の見積もりではなく、次の契約期間に必要となる人件費、外注費、仕入費などを使います。

ここでは、契約を続けると増える費用と、取引をやめても残る固定費を混同しないことが重要です。契約ごとの採算が把握できれば、何円の値上げが必要なのか、業務範囲の調整で対応できるのかを考えられます。

顧客は何に価値を感じ、何に不満を持っているか

長い付き合いがあることだけで、顧客が満足しているとは限りません。最近の利用状況、問い合わせ内容、未解決の問題、契約更新時に挙がった要望などを確認します。

価格より対応品質を重視している可能性もあれば、予算の上限が厳しい可能性もあります。「今のサービスで特に必要な対応は何ですか」「改善してほしい点はありますか」と聞き、顧客が重視する条件を整理します。

担当者の感触だけで「この顧客は絶対に離れない」「値上げしたら必ず解約する」と判断しないことが大切です。

値上げの理由と、契約上の変更条件は明確か

値上げの根拠が人件費や外注費の増加であれば、どの業務で何が変わったかを確認します。サービス内容も変えるなら、追加される価値や削除される業務を明示します。原価が上がったという説明だけで、相手に同額の増額を受け入れる義務が生じるわけではありません。

また、契約書で料金改定の時期、通知期限、更新方法、合意の要否などを確認します。顧客と協議せず一方的に変更できると決めつけず、必要な社内の法務確認や決裁を済ませます。

顧客が受け入れられない場合、何を選べるか

提案を断られたときの選択肢も、交渉前に整理します。たとえば、同じ業務範囲のまま段階的に価格を変える方法や、対応時間・作業量を見直して料金を調整する方法があります。ただし、業務を減らせない契約や、段階改定でも採算が合わない場合があります。

事前に、譲れる条件、譲れない品質、最低限必要な採算、いつまで現行条件を続けられるかを決めておけば、相手の反応を見てその場で無理な約束をしにくくなります。

確認した条件を、値上げ交渉の準備につなげる

以下は心理学研究を参考に考えた実務上の進め方です。研究でこの交渉手順自体の成果が検証されたわけではありません。

1. 据え置きと改定後を、同じ契約期間で比べる

次は説明用の仮の数字です。実際の企業の価格や相場ではありません。

保守契約の現在の月額が20万円、これまでの月あたり直接費が18万円だったとします。次の契約期間は人件費などが上がり、直接費が21万円になる見込みです。サービス内容と作業量は変えないものとします。

次の12か月の条件 価格据え置き 月額23万円へ改定
月額契約料金 20万円 23万円
月あたり直接費 21万円 21万円
月あたり差額 -1万円 +2万円
12か月の差額 -12万円 +24万円

※顧客が12か月間継続し、費用見通しが変わらない場合の仮の比較です。差額は契約料金から直接費を引いた値であり、会社全体の営業利益ではありません。固定費や交渉・引き継ぎに必要な費用は別途検討します。

この条件なら、価格を据え置くと直接費だけで月1万円不足します。月額23万円に改定できれば、従来と同じ月2万円の差額を確保できます。

ただし、値上げにより顧客が解約するかどうかは、この表では分かりません。解約した場合に減る費用、残る固定費、失う将来の売上、代わりの取引を得るための負担なども別に検討します。値上げが怖いから据え置く場合にも、据え置きの費用があることを確認するための表です。

2. 値上げ理由と、変更しないサービスを整理する

たとえば、改定の根拠が直接費の増加なら、旧契約で提供してきた業務、新しい費用の見通し、料金変更後も維持する対応範囲を資料にまとめます。

「値上げしたいから」ではなく、「次の契約期間もこの対応を続けるため、費用と料金を見直す必要がある」という説明にします。費用や品質について確認できない主張を加えたり、他社の値上げを根拠なく持ち出したりしないようにします。

3. 顧客の反応に応じて相談する案を用意する

交渉前に、少なくとも現行範囲を維持する改定案と、業務範囲を調整する案を比べておきます。段階的な改定が可能なら、その期間中の採算と、最終的な料金も示します。

顧客から予算制約を確認できた場合は、優先する業務を残して範囲を縮められるか相談します。品質やサービスに不満がある場合は、価格だけで押し切らず、改善すべき点と実行できる内容を先に確認します。

また、顧客にとって契約を続ける理由が乏しい場合は、交渉前に提供価値や対応範囲を見直す必要があります。値上げによる解約確率を推測で数字にせず、顧客の発言や契約更新の記録を根拠に判断します。

4. 値上げの説明後は、反対理由を聞いて判断する

次は説明用の会話例です。

「これまでの保守内容を継続するために必要な費用が増えており、次回更新から料金の見直しを相談したいと考えています。変更の理由と対象業務を資料にまとめました。御社で特に維持したい対応や、予算上の条件も伺ったうえで、可能な案を検討できればと思います」

相手が「高い」と反応した場合も、すぐに値引きを約束せず、予算を超えているのか、価格に見合う価値を感じられないのか、社内決裁が難しいのかを聞き分けます。

必要な価格で合意でき、契約手続きも満たすなら改定を進められます。条件を変えれば継続できるなら再見積もりを行い、採算や品質を保てない場合は更新しない選択肢も検討します。継続を優先して一定期間据え置く場合でも、いつ再検討するかを決めておきます。

既存顧客との関係を大切にすることと、価格を一切変えないことは同じではありません。顧客を失う不安だけで判断せず、相手が重視する条件と自社が継続できる条件を確かめたうえで交渉に臨むことが大切です。

参考文献・出典